2013年03月21日

お彼岸に思う

「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お彼岸はちょうど季節の変わり目、一年で最も過ごしやすい時期にあります。中日を挟んだ前後三日間の一週間がお彼岸の期間です。この間、お寺でのご法要やお墓参りをして、ご先祖様への供養が行われます。お正月、お盆と並んでお彼岸は重要な宗教行事です。

「彼岸」とは仏教の言葉で「到彼岸」を略したもので、インドの古い言葉 サンスクリット語の「पारमिता パーラミター」(波羅蜜多)を訳したものです。文字通り彼岸へ到達するという意味です。

また、彼岸とは「悟りの世界」を意味し、彼方の遠い岸のことですから自分が立っている場所ではありません。自分が立っているのは「此岸」です。自分が立っている場所を理解すれば、彼方の岸とは何かが分かります。つまり極楽浄土のことを指します。仏教教理が説いている到彼岸とは、迷いの岸(此岸)に生きる自己を仏の智慧によって変革し、悟りの岸(彼岸)に至ることを意味しています。この到彼岸のための仏道精進をする行事が彼岸会です。したがって、彼岸会においては、自己を深く反省し、悟りへ向けての精進努力をすることが、人間としての勤めにならなければならないのです。仏の世界からみた彼岸とは彼方に(仏語でいう)涅槃常楽で美しい理想郷があり、六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、禅定、智慧)の心で修行したのち到達できると考えられています。

昔の寓話では、大きな河に架けられた橋があり、この大きな河をこの世に、橋を人生に例えています。但し、橋の向こうは雲の中まで続いていて、その先は見えません。つまり、阿弥陀如来の極楽浄土は、十億万土の遠方にあるということを教えています。そして、彼岸は仏の世界、真理の世界であり無限であるということを意味しています。
だからこそ仏教の尊さ、修行の力強さがあります。日常の行いを正し、真面目に信仰の生活を志すことが大切であり、前述の寓話にある人生という橋を一歩一歩油断なく、足許に気をつけて渡る道理を悟ることが重要です。
仏の教えを信じず、油断をすれば踏み外して河へ転落します。人として生まれながら、仏の教えの有難さを覚えることなくあの世へ行ってしまいます。
彼岸の彼方、すなわち雲の彼方ばかりを見ないで、足許をよく見ることこそが彼岸の浄土、涅槃常楽の地であるとの教えです。「一日行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり」と仏恩に感謝し、毎日「己の行いは仏の行持なり」と信じるのならば、如来(仏)地の彼岸です。現実を無視しては未来はありません。今日の行持は明日、明後日、やがて一生を無限の彼方へと導いてくれます。
より遠い、高い、尊い境地を見出し、暑さ寒さも彼岸までと言われる穏やかな陽光で心身を浄め、彼岸についての仏の真理を悟っていただきたいと思います。

ところで、昼と夜とが同じ時間になる春分と秋分の日を中心に「彼岸会」が行われているのは、何故でしょうか。お彼岸の呼称は仏教用語ですが、お彼岸の行事の由来はどうも仏教ではなく日本の民俗からきているようです。民俗学では原始的な太陽崇拝の名残であると捉えています。古来から太陽に対して五穀豊穣などを願う「日の願」があり、仏教用語の「彼岸」は後から結びついたものと推論されています。このような太陽への信仰は日本に限らず世界各地に見ることができます。彼岸会のもとが「民俗としての太陽崇拝」「民衆の生活に密着した庶民信仰」にあることをもっと理解されるべきだと感じています。


posted by 鳥居観音 at 14:53| 方丈さんのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

一日不作 一日不食(いちにちなさざれば いちにちくわらず)

一日不作 一日不食 =働き溜めはなし、食い溜めもなし)

「働かざるもの食うべからず」に見えますが、これはそんな命令ではありません。
人は労働することが一番大切なことなので、それができないなら食べることはできない、という自らを律した自発的な言葉なのです。
しかし現代社会で食べられないことを想像するのは難しいのです。
せいぜい稼ぎが悪いと好きなものが買えないくらいが実感です。
禅の坊さんにとって労働は一番大切な修行なのでこんな禅語が生まれましたが、私たちにとってこの言葉からはもう一つの教えが見えてきます。
それは、わざわざ不作不食に「一日」をとつけてあることです。
一日働いて一日分食べる。次の日も、一日働いて一日分食べる。
快食、快眠、快大小便でいろいろなものを溜め込まず、労働も溜めず、食も溜めず、毎日を勤勉に暮らすことが、精神的にも肉体的にも健康でいる秘訣なのです。
posted by 鳥居観音 at 13:57| 方丈さんのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月01日

把手共行(はしゅきょうこう)

把手共行(はしゅきょうこう) −誰と一緒に生きていくつもり−

共に手を取って歩んでいく、という意味です。
結婚式の挨拶にぴったりかとも思えますが、手を取り合う相手とは誰のことでしょう。
四国巡礼のお遍路さんの笠には「同行二人」と書いてあります。
あれは、辛い道のりだが、二人で歩いて行こうというもので、たとえ一人旅でもそう書いてあります。
あの場合、一人は自分、一人は弘法大師様だというわけです。

ここでは、普段の生活の中で、この言葉を思い出していただける解釈をします。
あなたの心の底の方に、とても純粋で正直な自分がいませんか?
たまに顔を出しては「おいおい、自分よ、大丈夫かい?」と呼びかけてくるもう一人の自分。
それが手を取り合うベストフレンドです。

世の寒風にさらされ、くじけそうになった時、見失いそうになった自分と少しおしゃべりしてみてください。
「把手共行」が勇気をくれます。

posted by 鳥居観音 at 17:17| 方丈さんのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする